2009年06月28日
2009年03月14日
埒外を走る
多少なりとも競馬を知っている人にとっては、「ラチ」と言えば「埒」である。「拉致」ではない。
「埒外」という言葉は、「埒(=馬場の周囲の柵)の外」が原義にあって、そこから、「ある範囲の外」の意味が加わった、という発展過程は容易に想像がつく。
したがって、「法の埒外にある者」、すなわちアウトローを、「ならず者」と訳すのは結構だが、「暴れ馬」という訳語も捨てがたいのではないか。
NBAの試合を観ていたら、Outlawという選手がいたので、ちょっと考えてみただけである。
彼の名誉のために書いておくが、彼は少なくともコート上ではフェアーだった。
「埒外」という言葉は、「埒(=馬場の周囲の柵)の外」が原義にあって、そこから、「ある範囲の外」の意味が加わった、という発展過程は容易に想像がつく。
したがって、「法の埒外にある者」、すなわちアウトローを、「ならず者」と訳すのは結構だが、「暴れ馬」という訳語も捨てがたいのではないか。
NBAの試合を観ていたら、Outlawという選手がいたので、ちょっと考えてみただけである。
彼の名誉のために書いておくが、彼は少なくともコート上ではフェアーだった。
2009年03月12日
補填
製菓会社および大規模小売業者の複合体だけが結局は甘い蜜を吸うことになるのはわかっている。私はそういうやり方が嫌いだ。
一方、義理を欠かさない、というのは一般的な生活上の美徳であるとして衆目一致するのも事実なのだ。
かくして内部分裂する男を前にして、デパ地下スウィーツ売り場の女性店員は、小分け用の袋を丁寧に折りたたんで入れている。
これは、悲劇なのか、喜劇なのか。
何のことは無い。小市民の日常の一部に過ぎないのだ。
男は、内なる衝突の果てに発生した心のブラックホールを埋めるべく、同じデパートにある本屋に駆け込んで、かねてより望んでいた高価な本を買って、ようやく安らぎを得て帰路に着く。
満員電車でお菓子の箱がつぶれないかと気を揉んでしまった小心の己を嫌悪することになるとも知らず。
一方、義理を欠かさない、というのは一般的な生活上の美徳であるとして衆目一致するのも事実なのだ。
かくして内部分裂する男を前にして、デパ地下スウィーツ売り場の女性店員は、小分け用の袋を丁寧に折りたたんで入れている。
これは、悲劇なのか、喜劇なのか。
何のことは無い。小市民の日常の一部に過ぎないのだ。
男は、内なる衝突の果てに発生した心のブラックホールを埋めるべく、同じデパートにある本屋に駆け込んで、かねてより望んでいた高価な本を買って、ようやく安らぎを得て帰路に着く。
満員電車でお菓子の箱がつぶれないかと気を揉んでしまった小心の己を嫌悪することになるとも知らず。
2009年03月08日
冬の海
かつて、いや、今でもそうだが、冬の北日本海を一度は見たいという思いが強い。
とはいえ、数年来のことなので、思いだけで実際に行くことは無い気がしてきているのも事実である。
雲が重くのしかかり、漁に出るなんてもってのほかの荒海で、もちろん吹雪いている。
そんな私の固定観念を打ち砕くような風景があって、その中に身を置きたいという希望が、北への思いをかきたてるものの、実際に行ってみると想像していたとおりだったとしたら、一つの希望を失うことになり、それが北行きに歯止めをかけるのである(もちろん、面倒くさいだけだろうと訝しがられても否定はできないが・・・)。つまり、私は「想像を絶する」海が見たいのだ。
南国の海で幼い頃に遊んだ記憶とのギャップを楽しもうという気がないわけでもない。心地よい裏切りならば癖になりそうだ。それでなくとも、海はほとんど常に「いいイメージ」で彩られている。何せ、われわれ生命体は、その昔、海で生まれたというではないか。どれほど多くの人命がそこに呑みこまれたとしても、海は創造者的地位を保ち続けている。
だが、「母なる海」という観念はおそらく海洋生物学や古生物学といった諸学が発達してから出来上がったものだろう。日常的な経験の範囲内ならば、海は広大深遠すぎてほとんど未知であるといって言いぐらいだ。多くの人間にとって、海は、その際か表層のほんの一部しか知らないものであるし、たとえ漁業を営んでいても、あるいは海洋学者であったとしても、そのすべてを知っているわけではない。そう考えるならば、海に恐れを抱いていた古代の人々の方が、意外と海の真相を捉えていたような気さえする。かつて海は怖ろしいものであったはずであり、リヴァイアサンの住まう場所だったのだ。現代においてもなお、そちらの方が海の実相に近いというのは筆が滑りすぎだろうか。
夏の海難事故のニュースでは、しばしば「楽しい思い出が一瞬にして~」などと読み上げられるが、それなどは実に、海は楽しいものだという固定観念が蔓延していることを示す格好の証左である。小学生の時分、「海に行くときは大人と行きましょう」と夏休み前に教師が注意していたものだが、大人ごときが海に勝てるわけなど無いのだから、海民でもない限り、海には絶対行くな、と言うべきなのである。
しかし、結局のところ、私自身も、海は神聖不可侵であるという固定観念に囚われているだけではあるまいか。どうやら、「神を抱懐するように知ることはできない、ただ触れるように知ることができるだけだ」と信じていたかつての西洋の哲学者たちのように、広大深遠さを信ずる余り、海を無限なるものと同一視しているだけなのかもしれない。
神にして母なる海という観念から抜け出さない限り、本当の海にはたどり着けそうも無い。
長々と北行き非決行の言い訳を書き連ねてしまったが、冬の太平洋には行ってみたのである。

この男は神を前にしてその威厳に自失しているのか、母を前にしてはるか太古と幼い頃を同時に思い出しているのか、あるいはそのどちらかもしれない。
実のところは写メを撮りに行っただけなのだとしても。
とはいえ、数年来のことなので、思いだけで実際に行くことは無い気がしてきているのも事実である。
雲が重くのしかかり、漁に出るなんてもってのほかの荒海で、もちろん吹雪いている。
そんな私の固定観念を打ち砕くような風景があって、その中に身を置きたいという希望が、北への思いをかきたてるものの、実際に行ってみると想像していたとおりだったとしたら、一つの希望を失うことになり、それが北行きに歯止めをかけるのである(もちろん、面倒くさいだけだろうと訝しがられても否定はできないが・・・)。つまり、私は「想像を絶する」海が見たいのだ。
南国の海で幼い頃に遊んだ記憶とのギャップを楽しもうという気がないわけでもない。心地よい裏切りならば癖になりそうだ。それでなくとも、海はほとんど常に「いいイメージ」で彩られている。何せ、われわれ生命体は、その昔、海で生まれたというではないか。どれほど多くの人命がそこに呑みこまれたとしても、海は創造者的地位を保ち続けている。
だが、「母なる海」という観念はおそらく海洋生物学や古生物学といった諸学が発達してから出来上がったものだろう。日常的な経験の範囲内ならば、海は広大深遠すぎてほとんど未知であるといって言いぐらいだ。多くの人間にとって、海は、その際か表層のほんの一部しか知らないものであるし、たとえ漁業を営んでいても、あるいは海洋学者であったとしても、そのすべてを知っているわけではない。そう考えるならば、海に恐れを抱いていた古代の人々の方が、意外と海の真相を捉えていたような気さえする。かつて海は怖ろしいものであったはずであり、リヴァイアサンの住まう場所だったのだ。現代においてもなお、そちらの方が海の実相に近いというのは筆が滑りすぎだろうか。
夏の海難事故のニュースでは、しばしば「楽しい思い出が一瞬にして~」などと読み上げられるが、それなどは実に、海は楽しいものだという固定観念が蔓延していることを示す格好の証左である。小学生の時分、「海に行くときは大人と行きましょう」と夏休み前に教師が注意していたものだが、大人ごときが海に勝てるわけなど無いのだから、海民でもない限り、海には絶対行くな、と言うべきなのである。
しかし、結局のところ、私自身も、海は神聖不可侵であるという固定観念に囚われているだけではあるまいか。どうやら、「神を抱懐するように知ることはできない、ただ触れるように知ることができるだけだ」と信じていたかつての西洋の哲学者たちのように、広大深遠さを信ずる余り、海を無限なるものと同一視しているだけなのかもしれない。
神にして母なる海という観念から抜け出さない限り、本当の海にはたどり着けそうも無い。
長々と北行き非決行の言い訳を書き連ねてしまったが、冬の太平洋には行ってみたのである。

この男は神を前にしてその威厳に自失しているのか、母を前にしてはるか太古と幼い頃を同時に思い出しているのか、あるいはそのどちらかもしれない。
実のところは写メを撮りに行っただけなのだとしても。
2009年03月03日
雪
何かが落ちてくるわけでも、降ってくるわけでもなく、「舞い降りてくる」。
東京に来て8年になるが、今なお、その魅惑に抗い難さを覚える舞台装置ではある。
たといそれが、北国のようにさらっとしているわけではなく、むしろその一般的形態である雨に限りなく近いのだとしても、溶けて消えてしまうという、夭折を連想させるその特質だけで一つの話が出来上がってしまうというものだ。
雪で滑って転ぶ。
これほどまでに普遍的な笑いを生み出しながらも、そのたびごとに役者に生死を賭すほどの決断を迫る演技があっただろうか。
私の手首と肘と、底が磨り減った私の靴という小道具が、今、その過酷さを物語っているのである。
東京に来て8年になるが、今なお、その魅惑に抗い難さを覚える舞台装置ではある。
たといそれが、北国のようにさらっとしているわけではなく、むしろその一般的形態である雨に限りなく近いのだとしても、溶けて消えてしまうという、夭折を連想させるその特質だけで一つの話が出来上がってしまうというものだ。
雪で滑って転ぶ。
これほどまでに普遍的な笑いを生み出しながらも、そのたびごとに役者に生死を賭すほどの決断を迫る演技があっただろうか。
私の手首と肘と、底が磨り減った私の靴という小道具が、今、その過酷さを物語っているのである。



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