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Posted by TI-DA at

2025年04月09日

新入生ニ贈ル言葉


住メバ都 行ケバ名門

職ニ貴賤無ク 知ニ聖俗無シ

人間到ル処青山有リテ 人交ワル処学舎トナレリ

宇宙ノ理ニノミ従ヒ 一心荒野ヲ往ケ  

Posted by テン at 01:07Comments(0)

2024年08月22日

未来の自分よ、まだ正気かい?

2020年8月10日にこんなことを書いていた。
当時の状況や気分を我ながらよく記録できていると思うので、転載する。

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数日前、“Love Is Not Tourism”ということで、EU委員会がパートナーが他国にいる場合に越境を認めるよう各国政府に指示したらしいが、旅行はいいけど帰省はやめろ、と字面がほぼ真逆でちょっと考えた。

どっちが適切なんだろう、といっても現時点で万人が納得する答えは誰も持ってないだろうから、こうなると政策決定者やそれを支持する市民の中の優先順位で決めるしかない。EUは「愛」を優先した、我が国は「トラベル」を…と、それらしき対立軸を立てるのは簡単だが、実際問題、まだ治療法もよくわからない病を前に誰も正解は出しようがない。ただ、小さめのマスクを配るというのは明らかな凡ミスであろう。

越境といっても国レベルと都道府県レベルで異なる以上、一概に比較はできないのはわかっているわけで(EU域内だと似たようなもんか?まぁ、いずれにせよ)、実家からは帰ってくるな、同居人からは家にいて人混みには行くな、と求められ、大切な人のために帰省は慎重に、などとお上からも感傷に訴えられる始末で、求めに応えるのも家族愛と自らに言い聞かせながら、ほぼ自宅で過ごした夏季休暇が終わろうとしている。あるはずだった五輪の混雑回避のために休暇がずらされたのも、何とも言えず虚しさがある。

こんなことを書き連ねている己を省みるに、淡々と過ごしているつもりではあるが、やはり引き裂かれてはいるのだ。時代錯誤と笑われるかもしれないが、人間はやはり他人と接触してナンボの生き物じゃないのか(もちろん身体的なもの「だけ」ではなく)。長患いの祖母のことも気にかかるし、気の置けない人たちと酒杯を手に語らうこともできない。これがずっと続くのか?接触が忌避される社会も私にとってこの病と同じくらい不安なのだ。

でも一体、私は何を恐れているのだろう。人々が精神的に孤立して、社会的連帯感を喪失したディストピアに対する不安だろうか、などとSF小説の古典みたいなことを書いてみるが、そんな手垢のついた近未来像に怯えるようでは…

そもそも、漠然とした未来を想像するから不安や恐れが生まれてくるのだろう。もしかしたら、ワクチンが開発されて数年後には何事もなかったようにこれまでの日常が戻ってくるかもしれない。あるいは、劇的に変わってしまうものがあるかもしれない。働き方とか。ただ、いずれも不確定だ。不確実性に睨まれたカエルになるくらいなら、思い切って鳥にでもなった気持ちで、眼前にある現在を俯瞰して、じっくり観察してみてはどうか。それで直ちに何かが生まれるわけではない、が、精神衛生上、きっと効果はある。

今、正しい行いの隙間に、飛行機に乗り込む時にライターを一本だけは持たせてくれるっていうよくわからないルールと似たようなものが間違いなく蔓延ろうとしている。正解はわからないが、非合理なものにケチをつけるぐらいのことは鍛錬の一環として取り組むべきだ。やがて得るべき教訓のために、今はただ、正気を保て。  

Posted by テン at 23:55Comments(0)

2022年02月02日

フェイクとトゥルースのあわい

管見を披瀝するほどの奥深い思想があるわけではないが、何かを物したいという欲求はあるので、記録文学ならば形になるのではないかという甘い見通しを持って、それならば「事実」に徹した文章を書いてみようと思い立ったとする。

そうして書き出した途端に、そもそも「事実」とは何だと自問せざるを得なくなる。実際に起こった事象、真実、確固たる因果関係・・・何かソリッドなもの、そういうイメージはある。しかし、「事実」が固定的なものだとしたら、われわれはおそらく「事実」をめぐって争うことはしないし、「歴史的事実」が新史料の発見によって書き換えられることもあるまい。しかし、現実はそうではない。そして、われわれは「事実」ということについて特に難しい時代を生きている。もはや、古典籍やオールド・メディアが伝えるものだけが「事実」であると信じるほどにナイーブではあり得ないし、一方で、ニュー・メディアの玉石混交を鮮やかにさばくほどのスキルを持ち合わせていないのが大多数なのである。価値の相対性、自分の認識能力の限界・・・難癖つければいかなる「事実」も絶対性・確実性を失ってしまう。かくして、「事実」とはその本質からして曖昧なものではないかとの考えを抱くに至る。

だからいかなる「事実」も一面的だ、などと嘯いて筆を置いてしまっては欲求は満たされないだろう。愚見の誹りを恐れながらも少しだけ進んでみたい。

もし、「事実」が本質的に曖昧さを胚胎しているのだとすれば、その対義語である「虚構」もまた曖昧さを孕んでいることになるだろう。ぼんやりとした明かりを鏡に映したらシャープな光が返ってくるということはあってはならない。それはすなわち、「事実」と嘘偽り、作り物、想像の産物といった「虚構」との境界がぼやけてくることも意味する。ところで、「事実」とは異なり、「虚構」の方は曖昧さとの親和性がある。というのも、反実仮想を認め、想像の翼でどこまで飛ぶことが許される「虚構」は限りが無いものと見えるからだ。つまり、際(きわ)を持たない。だからこそ「事実」との境界もぼんやりとしてくると考えてみれば、両者は対義語として等価的な関係にあるのではなく、世界という全体の中にあって「事実」というごく小さな集合があり、その補集合として「虚構」が存在するといえるのではないか。かの有名な近松門左衛門の「虚実皮膜論」は、単なる文学的・芸術的手法ではなく、世界の実相の表現であったのではなかろうか。

では、一体誰/何が「事実」と「虚構」との境界を作り出したのか、あるいは、境界を見出したのか?完全に自由な虚構の生活に生きること能わず、安定した生活を欲し、多くの情報を得ることで世界を理解可能なものにしたいと願う集団・・・思いあたる人々がいる。われわれ一般人だ。それが曖昧なものであったとしても、やはりわれわれは「事実」を欲する。われわれは、安定した世界のために想像力を抑圧せずにはいられない。だが、それを誰が否定することができようか?「虚構」の世界に生きる稀有な人への羨望を持ちつつも、明日も平穏に生きるという「事実」を信じて床に就く人生もまた素晴らしいものだ。芸(技能・技芸という意味でまさしくラテン語のarsに重なる)は「虚」と「実」のあわいにあるとした近松は、想像力礼賛(虚)と現実・現世主義(実)のどちらかにだけ与するということなく、世界という総体をわれわれの側から垣間見せようとしたのかもしれない。  

Posted by テン at 00:40Comments(0)

2009年03月08日

冬の海

かつて、いや、今でもそうだが、冬の北日本海を一度は見たいという思いが強い。

とはいえ、数年来のことなので、思いだけで実際に行くことは無い気がしてきているのも事実である。

雲が重くのしかかり、漁に出るなんてもってのほかの荒海で、もちろん吹雪いている。

そんな私の固定観念を打ち砕くような風景があって、その中に身を置きたいという希望が、北への思いをかきたてるものの、実際に行ってみると想像していたとおりだったとしたら、一つの希望を失うことになり、それが北行きに歯止めをかけるのである(もちろん、面倒くさいだけだろうと訝しがられても否定はできないが・・・)。つまり、私は「想像を絶する」海が見たいのだ。

南国の海で幼い頃に遊んだ記憶とのギャップを楽しもうという気がないわけでもない。心地よい裏切りならば癖になりそうだ。それでなくとも、海はほとんど常に「いいイメージ」で彩られている。何せ、われわれ生命体は、その昔、海で生まれたというではないか。どれほど多くの人命がそこに呑みこまれたとしても、海は創造者的地位を保ち続けている。

だが、「母なる海」という観念はおそらく海洋生物学や古生物学といった諸学が発達してから出来上がったものだろう。日常的な経験の範囲内ならば、海は広大深遠すぎてほとんど未知であるといって言いぐらいだ。多くの人間にとって、海は、その際か表層のほんの一部しか知らないものであるし、たとえ漁業を営んでいても、あるいは海洋学者であったとしても、そのすべてを知っているわけではない。そう考えるならば、海に恐れを抱いていた古代の人々の方が、意外と海の真相を捉えていたような気さえする。かつて海は怖ろしいものであったはずであり、リヴァイアサンの住まう場所だったのだ。現代においてもなお、そちらの方が海の実相に近いというのは筆が滑りすぎだろうか。

夏の海難事故のニュースでは、しばしば「楽しい思い出が一瞬にして~」などと読み上げられるが、それなどは実に、海は楽しいものだという固定観念が蔓延していることを示す格好の証左である。小学生の時分、「海に行くときは大人と行きましょう」と夏休み前に教師が注意していたものだが、大人ごときが海に勝てるわけなど無いのだから、海民でもない限り、海には絶対行くな、と言うべきなのである。

しかし、結局のところ、私自身も、海は神聖不可侵であるという固定観念に囚われているだけではあるまいか。どうやら、「神を抱懐するように知ることはできない、ただ触れるように知ることができるだけだ」と信じていたかつての西洋の哲学者たちのように、広大深遠さを信ずる余り、海を無限なるものと同一視しているだけなのかもしれない。

神にして母なる海という観念から抜け出さない限り、本当の海にはたどり着けそうも無い。

長々と北行き非決行の言い訳を書き連ねてしまったが、冬の太平洋には行ってみたのである。



この男は神を前にしてその威厳に自失しているのか、母を前にしてはるか太古と幼い頃を同時に思い出しているのか、あるいはそのどちらかもしれない。
  

Posted by テン at 22:44Comments(0)

2009年03月03日

何かが落ちてくるわけでも、降ってくるわけでもなく、「舞い降りてくる」。

東京に来て8年になるが、今なお、その魅惑に抗い難さを覚える舞台装置ではある。

たといそれが、北国のようにさらっとしているわけではなく、むしろその一般的形態である雨に限りなく近いのだとしても、溶けて消えてしまうという、夭折を連想させるその特質だけで一つの話が出来上がってしまうというものだ。

雪で滑って転ぶ。

これほどまでに普遍的な笑いを生み出しながらも、そのたびごとに役者に生死を賭すほどの決断を迫る演技があっただろうか。

私の手首と肘と、底が磨り減った私の靴という小道具が、今、その過酷さを物語っているのである。

  

Posted by テン at 21:55Comments(0)